渡辺康幸さんと言えば、高校・大学・実業団で活躍し数々の記録を持っています。
引退後は母校早稲田大学の駅伝監督として、大迫傑さんなどの名ランナーを育て史上3校目の学生三大駅伝三冠を達成するなど、指導者としても優秀でした。
最近では解説者としても活躍、箱根駅伝や全日本大学駅伝などで、豊富な経験と知識をいかした解説は、丁寧で分かりやすくためになります。
そんなマルチな才能を持つ渡辺康幸(わたなべやすゆき)さんの経歴や出身小学校・中学・高校・大学、そして結婚した嫁や子供はいるのかなどを調べてみました。
プロフィール(経歴)
渡辺 康幸(わたなべ やすゆき)
生年月日 1973年06月08日(49歳)
出身地 千葉県千葉市
身長 176cm
体重 59kg(現役時代)自己ベスト
5000m 13分26秒 (1994年)
10000m 27分46秒39 (1998年)
マラソン 2時間12分39秒 (1996年)
出身小学校・中学
出身小学校は千葉市立畑小学校で、中学は千葉市立花園中学校です。
渡辺さんの祖父は元800m栃木県記録保持者で、お父さんも短距離走の選手でした。
小学校時代は野球とサッカーをやっていて、野球では4番でピッチャーでした。小学校のマラソン大会では6年連続1位だったそうです。
野球をやっていて小学校のマラソン大会連続1位というのは、早稲田大学の2年先輩の花田勝彦の小学校時代に似ています。
中学校に進学し、野球かサッカーを続けようと考えていたそうですが、お父さんの勧めにより陸上部に入ることに。
中学3年時に、駅伝千葉市大会で区間賞を獲得して優勝、千葉市選抜チームとして出場した千葉県中学校駅伝大会でも区間賞を獲得。
この駅伝での活躍から私立高校からのスカウトを受け進学を考えますが、市立船橋高校の小出義雄さんからも誘いがあり、私立高校への推薦入学を勧める両親を説得して市立船橋高校に進学しています。
市立船橋高校時代
出身高校は市立船橋高校。
市船時代は全国高校駅伝には3年連続で出場し、2年3年と2年連続1区で区間賞を獲得、1区での2年連続区間賞は30年ぶり史上4人目という快挙でした。
高校2年夏の世界ジュニア選手権から高校を卒業するまで、国内では高校生に一度も負けていません。
高校2年3年時の1990年と1991年の国体少年A10000mで2年連続優勝、3年のインターハイでは1500mと5000mで優勝しています。
全国高校駅伝
1989年全国高校駅伝 3区25位 25:25 市船09位
1990年全国高校駅伝 1区01位 29:42 市船08位区間賞
1991年全国高校駅伝 1区01位 29:34 市船02位区間賞
早稲田大学へ
渡辺さん10以上の大学や実業団からスカウトを受けたそうですが、早稲田大学人間科学部へ進学しています。
早稲田大学を選んだ理由は、瀬古利彦さんがコーチをしていたことと、当時早稲田三羽烏(さんばからす)と呼ばれた櫛部静二さん武井隆次さん花田勝彦さんなどの強い先輩がいて、いい練習ができるだろうと考えてでした。
瀬古さんとの対談では、世界で走るなら早稲田しかないという気持ちが高校時代から芽生えていて、早稲田大学に合格できなかったら浪人していたと言っています。
高校時代で成長が止まってしまったり、大学で伸び悩む選手も多い中、渡辺さんの速さは大学に入ってからも変わりませんでした。
大学に入った時点で、2年先輩の三羽烏の三人とほぼ互角だったとご本人が語っています、それだけでも驚きなのですが、高校3年間に物凄い練習をしたので、早稲田大学に入ってからの練習は楽だったとも言っています。
このエピソードだけでも超高校級・超大学級の選手だったということがわかります。
瀬古さんの指示で大学1年の時は練習を減らしていたそうですが、それでも1年夏の世界ジュニア選手権10000mで銅メダルを獲得しています。
大学2年では、関東インカレ10000m1位、日本選手権10000m4位、ユニバシアード10000m2位。
大学4年では、関東インカレ5000m10000mで優勝、日本選手権10000m優勝、全日本インカレ5000m優勝、世界選手権10000m12位、ユニバシアード10000m優勝、と圧倒的な成績を残してます。
1996年3月のびわ湖毎日マラソンでマラソンデビューします、初マラソンは2時間12分39秒で7位でした。
箱根駅伝
渡辺さんトラックでの戦績も凄いのですが、ロードの箱根駅伝での戦績もずば抜けています。
1993年69回大会
1993年69回大会では、1年生ながらエース区間の2区を任され区間2位で、早稲田大学8年ぶりの総合優勝に貢献。
1994年70回大会
1994年70回大会では1区を走り区間記録を56秒も更新する圧倒的な走りをしています。
早稲田大学1991年から1区では3年連続で区間新記録を出していて、1993年に3年の櫛部さんが前年の記録を1分13秒も更新する記録を出したのですが、渡辺さんはそれを56秒も更新する記録を出してしまったことになります。
この時の記録は2007年83回大会で、東海大学の2年生だった佐藤悠基さんに破られてしまい、現在では区間2位の記録です。ちなみに佐藤さんの記録は1時間01分06秒です。
1区のベスト10記録のほとんどが2014年90回大会以降の記録なので、1994年に1時間01分13秒で走った渡辺さんの凄さが際立つと思います。
1995年71回大会
1995年71回大会では2年ぶりの2区で起用され、ここでも圧巻の走りを披露します。
トップの山梨学院大学から2分01秒遅れの9位でタスキを受け取った渡辺さん、次々に前を走る大学を抜いていきます。
トップの山梨学院のステファン・マヤカさんが区間記録を8秒更新したあとに、渡辺さんが7人抜きの2位でタスキをつなぎ、マヤカさんが1分29秒前に作った区間記録を38秒も上回る区間新記録を出しました。
2区での1時間06分台は史上初でした、この時渡辺さんが出した1時間06分48秒は現在4番目の記録になっています。
1996年72回大会
1996年72回大会では競走部主将になり、3回目の2区を走ることになります、この大会でも渡辺さんは圧巻の走りをしています。
前年と同じく9位でタスキを受け取りトップの亜細亜大学との差は37秒、次々と前を走る大学を抜いて先頭に立ちそのまま独走をして2位に2分04秒差を付ける9人抜きの走りでタスキをつなぎました。
4年間で3度の区間賞と2度の区間新記録を出した箱根駅伝ですが、渡辺さんにとって競技の中心に来る大会ではなかったというから驚きです。先輩でコーチの瀬古さんも箱根を重視していませんでした、今では考えられないことですね。
渡辺さん在籍していた4年間に、早稲田三羽烏の櫛部さん武井さん花田さんに小林正幹さんに小林雅之さんなどがいて、早稲田大学は黄金期を迎えますが。1回しか優勝していないんですよね信じられませんが、ちょうど山梨学院大学も黄金期を迎えていたんですよね。
ムック本でごぼう抜きで見ている人には楽しい駅伝だったと思いますけど、あれではタイムが出ないと言っていました。ごぼう抜きは駅伝の花ですよね、見ていてい楽しいですし。
渡辺さんの走りリアルで見てみたかったです、今後渡辺さんみたいな物凄く強いランナー箱根で出てくるでしょうか?
箱根駅伝
1993年第69回大会 2区02位 1.:08:48 早大01位
1994年第70回大会 1区01位 1:01:13 早大02位 区間新
1995年第71回大会 2区01位 1:06:48 早大02位 区間新
1996年第72回大会 2区01位 1:06:54 早大02位 区間賞
エスビー食品へ
1996年大学卒業後は瀬古さんが監督をしている、エスビー食品へ入社。実業団に進むにあたり10社以上から勧誘を受けていたそうです。
1996年6月日本選手権10000mで3位となり、アトランタオリンピック10000m日本代表に選出されました。
実はこの日本選手権で左足のアキレス腱を痛めており、アトランタオリンピックの10000m予選直前にアキレス腱に強い痛みが出て出場を回避しています。この故障が長引きレースに出場できない状態が続きました。
渡辺さんメチャクチャ悔しかったでしょう、オリンピックの舞台で走る直前で出場を回避するなんて、しかもその怪我が長引きレースに出れない日々が続いたこともショックだったでしょうね。
その後も渡辺さんアキレス腱の故障などに悩まされ続けます。
1998年1月のニューイヤー駅伝アンカー7区で区間新記録を出しますが、エスビー食品は準優勝。
12月の福岡国際マラソンに挑戦、左太ももを痛めて34km付近で途中棄権。
2000年はシドニーオリンピックのマラソン・長距離トラックの国内選考会には故障のため出場できず。
故障が再発して7年間で7度という慢性的なアキレス腱の故障により、2002年9月9日に引退を発表しました。
もし渡辺さん怪我をしなければ実業団でどれだけの実績を残していたのでしょうか・・・
母校早稲田大学の指導者に
2003年4月から母校早稲田大学へ出向して、競走部のコーチとなりました、そして2004年4月からは駅伝監督に就任しています。
渡辺さんが監督に就任した頃の早稲田大学は弱かったのですが、渡辺さんが地道に強化をしていきました。
そして結果が出始めます、2007年第83回箱根駅伝で6位になり5年ぶりのシード権を獲得、2008年第84回箱根駅伝では12年ぶりの往路優勝をし総合2位に、2009年第85回大会も総合2位。
2010~2011年シーズンでは、出雲駅伝・全日本大学駅伝・箱根駅伝と大学三大駅伝全てで優勝し、史上3校目の三冠を達成しています。
2011年以降も安定した成績を残すチームを作り、早稲田大学を強豪校に育てあげました。
2015年3月に駅伝監督を退任しています。
住友電工陸上競技部監督に
2015年4月からは住友電工陸上競技部監督に就任しています。
2017年は高校No.1ランナー学法石川高校の遠藤日向さんが入部します。
遠藤さんが住友電工に決めたのは、渡辺さんがいるからで、渡辺さんに勧誘され話を聞いて自分の中でグッとくるものがあったからだと話しています。
渡辺さんが遠藤さんをどう育てるのか今から楽しみです。
結婚した嫁や子供は?
渡辺さん早稲田大学が往路優勝した34歳の2008年に結婚しています。
お相手は当時テレビユー福島のアナウンサーをしていた北条愁子さん(36歳)です。*年齢は2008年当時
プロフィール(経歴)
北条 愁子(ほうじょう しゅうこ)
生年月日1971年03月02日(51歳)
出身地 岩手県水沢市(現・奥州市)
身長 169cm
血液型 A型岩手県立水沢高等学校
國學院大學経済学部卒業
テレビ金沢
テレビユー福島
現在はフリーアナウンサー利き酒師資格を所持
お二人の出会いは2007年6月に愁子さんのコロンビア大学院時代の友人を通じて知り合い、2008年1月の箱根駅伝が終わるのを待って、渡辺さんがプロポーズしたそうです。
2009年に男の子が生まれています、お名前などはわかっていません。
まとめ
千葉市立畑小学校、千葉市立花園中学校出身。
高校は市立船橋に進学。
全国高校駅伝1区で2年連続区間賞など、高校では敵なし
早稲田大学へ進学
箱根駅駅伝では4年間で1位3回(2回区間新)2位を1回
卒業後はエスビー食品へ
アトランタ五輪10000m日本代表に選出されるが、アトランタ五輪レース直前で棄権
アキレス腱の故障に悩まされ2002年に引退
引退後は母校早稲田大学の駅伝監督に就任
地道に強化し2010~2011年シーズンに三冠を達成するなど強豪校に育て上げた
2015年から住友電工陸上競技部監督就任
2008年にフリーアナウンサーの北条愁子さん結婚し、子供は男の子が1人
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